理性の戯言

 

 

資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。

これが資本論の序文だ。当然意味が分からない。資本論は色々厳しかったドイツ政府に摘発されないために、わざとわかりにくく書かれたらしい。そんなものを読まされる現代人の立場にもなってほしい。そういうわけで僕はずっと資本論の原文からは逃げている。しかし今回僕が書こうとしている記事はかなり資本主義の話と関わっているし、かつ、なるべく長く書こうとしているので、どうしてもこの序文を引っ張ってこないわけにはいかなかった。いや、嘘だ。ただ僕はなるべく読みづらくやる気を起こさないような序文としてこれを引用しただけだ。実際僕がやりたいのはなるべく読みづらく、要らないものは入っているかもしれないが、必要なものはすべて収まっているような記事を書くことだ。ちなみにすでに指が痛い。このキーボードはゲームには適しているがタイピングには適していないようだ。

 

 

僕はこの数年、特に去年の一年間は結構な数のブログを書いた。そのほとんどはとても分かりやすく、キャッチーで、読みやすくて、内容の薄いものだった。なるべくたくさんの人に読んでほしかったし、笑ってほしかったし、話題にしてくれるととても嬉しかった。実際にたくさんの人が褒めてくれたし、読んだことを報告してくれた。中には感想を教えてくれる人もいた。けどまあ中身は薄かったし、しっかり長文でコメントをくれる人は少なかったように思う。それはそれで好きだった。別に長大なブログが求められているとは思えなかったし、僕にそんなものが書けるとも思わなかった。

 

 

でも今回僕は長大なブログを書きたいと思った。それは昨日のことだった。なんでそんなことを思いついたのかは分からなかった。だが、次の記事はとても長い記事にしたいと思った。自分が今抱えている恋愛がとても問題を含んでおり、うまくいきそうになく、でもそれにすがりついて離れられないことが原因だったかもしれない。元来僕はかなり女々しいほうだ。女々しいという言葉はかなりフェミニズムに対して挑戦的だと思う。一体女々しいとは一体どこの女性を捕まえてそんな単語を思いついたのだろう?しかしよく考えると、女性に対して女々しいということばは適切ではない。それは男性に対して使う言葉だ。そう考えると、もともと女々しいという言葉は男性の為にある言葉であり、それが男性に固有の性格であるというのも納得できるかもしれない。

 

 

ともかく今回の記事は僕のその女々しい性格に寄り添った長編になっている。世間では結論から話す、わかりやすく話す、具体的かつ簡潔にというのが叫ばれている。今までの記事では実際にそれを意識してきた。それが薄っぺらだったことはこれまでの記述でもわかるとおりだ。そして今回はなるべく長く分かりにくく書くつもりだ。なぜそうなったのか、その一つの原因として恋愛のことを先ほど書いた。僕はなるべく自分の思考をしっかりと秘匿化したかったのかもしれない。そしてその謎を解いてくれる女性に身を託したいと考えていたのかもしれない。それはまるでかぐや姫のようだ。かぐや姫はもともと結婚する気が無かったのに、断ることができなかったため無理難題を押し付けたと言われている。またその中に帝がかぐや姫からもらった不死の薬を焼くところがある。あなたに会えないのであれば不死なんて意味がない、という美談として語られているが、かぐや姫としては永遠の命を使ってでも私に会いに来てほしいという意味があった、というような解釈もある。それはそれでロマンチックだが、でも永遠の生なんてもらったって実際困る。かぐや姫ほどの美人じゃなくていいから、永遠の命なんてなしでも付き合えるかわいい女の子がいたらそれでいいのだ。きっと帝だってそう思っていただろう。読者の男性陣もそう思ったはずだ。

 

 

僕はかぐや姫が押し付けた無理難題のように、このブログにとても分かりづらい要素を書き加えようとしている。だがもう息切れしつつある。これは僕に文才がないせいかもしれないし、子供のころからわかりやすい文章を書くように訓練されてきた成果かもしれない。とにかく僕も古代の人たち同様、恋をしていた。僕の恋した女性はとても若く、美しく、人望がある女性だった。その価値はいかほどだろうか。「価値」という単語が出てしまっている時点で、僕も資本主義に染まってしまっているのは疑いようのない事実だ。彼女がとても美しく、若く、その他もろもろたくさんの魅力を兼ね備えており、要するにモテモテであることはただそれだけの事実だ。それはお金と交換できるものではないし、しかし、僕はそれを価値としか表現することができない。今回はその価値について長々と書くのが目的である。

 

 

今回の記事の主な登場人物は、この女性と、ガールズバーと、ラーメンである。僕はTwitterにいつも写真を上げているように、かなりのラーメン好きである。その歴史は長い。子供のころからラーメンは好きだった。週末に家の近くのラーメン屋に家族で行くのが楽しみだったし、祖父の家を訪れたときにもラーメン屋によく連れて行ってもらった記憶がある。僕が好きなのはラーメンとチャーハンのセットだった。実家でラーメンを食べることもあった。父が作るラーメンは大体生麺をゆで、適当な野菜と肉を炒めて乗せてあった。今思えば週2回の休みにそれだけの料理を子供のために作ってくれる父親はかなり優しかったというか、余裕があったと思う。僕は自分一人の為にすら自炊をしないし、否、自分一人のためだからこそ何もできないのかもしれない。人は自分の為より人のための方が頑張れる傾向にあると思う。少なくとも僕は自分しか食べない料理より、家族のために作る料理の方がきちんとレシピを調べるし、失敗のないように慎重に作る。

 

 

中高生の時は電車通学をしていたが、ラーメンを食べに行った記憶はない。お金がなかった。友達と遊んでも、公園でパンとかおにぎりを食べていた記憶がある。チョコスティックパンのことを覚えている人は多いのではないだろうか。100円くらいで500キロカロリー近くある、とんでもないコスパの商品だった。今でもたまに懐かしくなって食べることがある。恐ろしくパサパサであり、喉の渇き方は尋常ではなかった。とにかく、僕は高校を卒業して、浪人もして、その間特にラーメンに関わることはなかった。初めてラーメン屋に行ったのは上京後、といっても神奈川だから上京と言っていいのかは分からない。神奈川に上ってきた人たちは一体これを何と呼ぶのだろう?今日もガールズバーでその話をしたが、上京と言いながらうしろめたさを感じた。

 

 

友達につれていかれたのは横浜駅西口の一蘭だった。一蘭だ。僕はすごく高くて驚いた。東京のラーメン屋(神奈川だけど)はこんなに高いのかと驚いた。今ほど物価が高くなかった時期であるし、確か800円程度ではあったと思う。だがそれまでの僕はラーメンといえばフードコートの280円くらいのラーメンしか知らなかった。実際その当時すぐそばのダイエーのフードコートではラーメンが400円くらいだったと思う。大学に入ってもしばらくはラーメンにはハマらなかった。転機というか、横浜に住んでいた影響で家系ラーメン屋に入ることもあった。だがそこまでの衝撃ではなかったと思う。むしろ、関内の二郎がとても印象に残っている。

 

 

関内の二郎に初めて行ったときはサークルの人たちに連れて行ってもらった。とてもデカいラーメンだと聞いた。実際に太麺に驚き、野菜の量、肉の旨さに驚いた。チャーシューといえば避妊に使うような厚さしか知らなかった僕にとってその太さは衝撃だった。その次一人で食べに行ったとき、夜眠れずに徹夜で行って、太麺がうどんに思えたし全然食べきれずにつらい気持ちでカウンターにどんぶりを上げたのをよく覚えている。とにかく、それ以来僕は二郎を食べ続けている。

 

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とにかく僕が今夜食べたのは800円のラーメンだった。お腹は膨れるし、ご飯はついてくるし(なんとおかわりし放題だ)、1時まで開いてる。恐ろしいコストパフォーマンスだ。それでも家系ラーメン屋としては際立って安い方でもない。東京駅のちょっとお高い家系でも1000円も出せばラーメンとご飯が食べれる。尋常じゃないサービスだと思う。東京にはオムライスを1皿3000円で出す店があるらしい。こだわりぬいたラーメンだって、1000円で出していいはずがないのだ。これが資本主義だ。いやどこが資本主義なのだろう。ガールズバーでかわいい女の子と1時間ちょい話して一万円なのと、すごくおいしいお腹の満たされるラーメンが800円で売られていることを一つの法則で説明することは到底できる気がしない。しかし、まあ、その二つを結びつけるのが今回の目的ではあるし、その両極端について目の当たりにして、僕は絶望をいだき、顔をニヤけさせながら歩いて帰ってきたのである。

 

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性の商品化という概念がある。僕はそれを最近youtubeで知った。女性であることは商品として売買されているらしい。たとえば、ピアノを弾く動画でもサムネイルに女性のおっぱいが乗っていればドカンと再生数が伸びるとか、そういう話だ。街コンの参加費は男女で倍以上違うし、マッチングアプリにはかわいい女の子は絶滅寸前だし、ガールズバーにはかわいい女の子がいて、1時間話して何本かドリンクを入れて1万円かかるのだ。僕は正直言って、これは女の子の価値基準がおかしくなるはずだと思った。僕の好きな女の子の何人かはガールズバーで働いたことがあるし、テーブルを挟んで向かい側にいる30の男性が1万円払う一方で、その男と話を盛り上げてビールを何倍か飲む女性が時給数千円もらうのを見れば、自分の資本主義における商品価値を的確に理解するのに十分だという気がする。

 

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この社会において男性の立場は非常に弱い。否、女性の立場だって弱い。一部の上位に存在するものがひたすら有利になり、下位の存在がひたすら追い込まれるのだ。男性はある程度収入をもってなけなしの資材を打って風俗に行く。女性は一体どういう構造に巻き込まれているのだろうか?おそらくモテないが風俗に行く男性は一定数おり、モテないがホストに行く女性はあまり少ないのではないだろうか。もしそのように仮定するなら、男性向けの風俗店にかわいい女性があつまり男性がひたすら貢ぐ構造も理解できる。男性がひたすら禁欲的になればその構造も解消するかもしれない。

 

 

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自由恋愛がやばいという動画をYoutubeで見た。恋愛がお見合いで終わる世界から自由競争になった。そこでは男は自分を磨き、女も自分を磨く。化粧が当たり前の時代になり、整形が当たり前の時代になり、そして今は、今後はどうなるのだろうか。競争は熾烈化し、たくさんの金が投資される。脱落するものは増え、一部の勝ち組だけが甘い汁をすすることになる。だが僕はその勝ち組をねたんでいるわけではない。その勝ち組でさえ、少し時間が経てばさらに勝ち組と負け組に分かれる。女性は年を取れば商品価値が下がるし、男性は年功序列に従えば収入が増えるが、転職市場がそれを許してくれないかもしれない。ざっくり行ってしまえば、みんなでパイを奪い合い、パイを増やすのではなくパイを奪う能力を伸ばすことに熱中し、最終的にとても貧しく誰もが苦しい社会になる。

 

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だが僕だってブスは嫌だ。かわいい女の子と付き合いたい。ある程度努力はした。小中高とよく勉強し、まあまあな大学に入って、なんとか卒業した。正社員だ。クソみたいな会社でクソみたいな勤務をし、最悪の気分を味わい、二度転職し、今休んでいた会社に戻ろうとしている。僕の人生は正しかっただろうか。いや、正しかったはずなんてない。その場しのぎを重ね、厳しい母親の意見に従ったり逆らったり、真面目になったりふざけたり、改心したりまたクズになったり。そういった蓄積で、大して魅力的でもない謎の崩れかけの掘立小屋みたいな存在が僕だ。最底辺じゃないというプライドがある。面白い文章を書ける自負がある。人の話を楽しく引き出せる気もする。仕事するフリも多少はできる。タイピングが早い。背が高い。声をたまに褒められる。そして、僕の市場価値は一体どれだけだろうか。

 

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Youtubeでたくさんのモテ方講座を見た。それらは僕がこれまでの人生で一度も見たことのないものだった。意外なものもあれば、それくらいわかるというものもあった。だが現状をなんとか打開するヒントはなかった。人は自分の持っているもので戦うしかない。多少のテクニックによって、あるいは考え方の転換によって何らかの有利を取ることはできるかもしれない。しかしどう考えても、僕は好きな女性の圧倒的な市場における商品価値に太刀打ちができないし、彼女はその商品価値をずいぶんと深く理解し、僕はその価値を今夜なんとなく感じ取ったに過ぎない。

だが僕は彼女をあきらめることができない。たくさんガールズバーに行けば僕は目が覚めるかもしれない。基本的に僕はチョロい。なぜなら女性経験が豊富ではないからだ。僕は常に不利な戦いで全力を尽くしてきた。それが正解だったのか不正解だったのかは分からない。いや、その基準がそもそも間違っているのかもしれない。恋愛において正解や不正解なんて基準もないし、商品価値だなんて誰も考えていないのかもしれない。その世界が僕の望んでいる世界で、それはあまりにもファンタジー的なのかもしれない。僕はまだ、天使のような女性が目の前に現れて、僕のことを唯一理解してくれるストーリーを期待しているのかもしれない。本来それは母親が満たしてくれるべきで、そのマザコン世界線を幼いうちに卒業するべきだったのだろう。こうして僕はギャルゲー的世界の訪れを期待しながら、現実の世知辛さに顔をしかめながら逆風を歩く存在として存在し続けるのかもしれない。

 

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彼女は僕に問うた。なぜ私なのかと。僕はその時、納得のいく回答ができなかった。この数日でそれに足りる回答ができたと思った。それは僕が心から信じ、また正しいと思い、その女性を説得するに足りる回答だと思った。だが彼女はまたその回答をする機会を与えてくれなかった。恨んではいない。ただ彼女にとって僕があまりにも価値のない存在だった。少なくとも僕にはそう感じられた。僕は彼女が大好きで、彼女に振り回されるのも嫌いじゃなかった。ただ返事が来るだけで十分嬉しいし、その時点で僕は負けなのだ。僕は負け犬であり、落ちこぼれだった。でも僕は彼女を諦めれなかった。そんなに割り切れるものじゃない。僕は一体いつまでこの感情を引きずり続ければいいのだろうか?思えば僕はずっとこんな感じだった気がする。負け犬根性というのだろうか。自分が負け組であるという自覚、自分が底辺にいるというのはとてもラクな気がした。ぬるま湯なのだ。僕はぬるま湯から出て、寒いフィールドで戦う勇気がなかった。競争が嫌いだった。僕は戦いたくなかったし、厳しい母親ににんじんを顔の先にくっつけられて走っていたただの豚なのだ。気が付けばそこそこの位置にいて、なんとかその位置をキープしようとしたが、キープすることですら過酷だった。人はみな競争に適応しており、何らかの目的を持っているように見えた。そして僕はただ目の前にあるニンジンが腐っていくのを見守っていた。僕は競争を降りたいと願った。すこしずつ僕の順位は落ちた。やめるには惜しいように思えた。それが僕のこれまでの人生だった。

 

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僕はまだ自分が謎めいた存在である可能性に賭けている。それで自分の価値を少しでも高く見積もらせれることに期待をかけている。自分の価値を高める努力は早くから手を引いている。彼女が僕のこのブログを見たらどう思うだろうか。あまりいい思いはしないかもしれない。これは僕の彼女への愛を綴った記事ではない。ただ自分を哀れみ、自分をかわいがっているだけの記事である。この記事を最後にその感情にけりを付けることができるわけでもない。だが、男は35くらいになると謎にけじめをつけることができるらしい。僕はあと数年したら、そのような悟りを開くことができるかもしれない。それまではこの感情を引きずって、働いたり、引きこもったり、ゲームをしたり、しなかったり、惰眠を貪ったり、あの女の子のことを忘れずに生きていくのだろう。

 

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人間には本能と理性がある。理性はあまりにも愚かで、それは本能を縛る動きしかしない。理性によって得られた数少ない利益を理性は喧伝する。まるで衆愚政治だ。愚かで声の大きい人間が身体を支配し、愚かな人間と相成る。僕の理性くんはとても立派にこの文章を書いた。約7000字だ。多分本能の方は今日の体験及び失恋に対してとてもそっけなく意見を言うだろう。彼は一体なんというのだろうか?僕の理性はあまりにも声が大きく、彼の声がよく聞こえない。理性がささやく。別に悪くない人生じゃないかと。これでいい。本能だってそういっている。葛藤が僕の中に生まれる。人は都合のいい方に解釈する。いや、それは僕の理性だ。本能では何かを求めている。僕の理性はとても優秀で、愚かで、足を引っ張るのに適しているのだ。僕はそいつを成敗したいと願う。だが願っていることですら理性の生み出す妄想だ。救いようのない人生から目を背け僕は眠る。